シンクロニック・ジャーニー
旅に出ると、そこでしか味わえないシンクロを「これでもか!」という位沢山体験させてもらえます。国内・海外問わず、スピリチュアルで美味しい旅の話を、シンクロ体験満載にてお届けします。
カーラチャクラ アマラヴァティ2006 〜カーラチャクラ伝説の旅/前編(by D) ■チベット仏教に伝わる最高の教えのひとつ「カーラチャクラ」。入滅直前の仏陀が、聖なる国シャンバラの王・スチャンドラの要請に応えて伝えたのが始まりとされるこの教えは、現在、チベット仏教の最高指導者として知られる、ダライ・ラマ法王14世によって、継承・保持されています。
最初の伝授が行なわれたという伝説の地、スリ・ダーニヤカタカ(現・アマラヴァティ)で、仏陀入滅2550年のタイミングに当たる2006年、ダライ・ラマ法王による30回目の「カーラチャクラの灌頂(入門儀式)」が行なわれるかもしれない、という話を耳にしたのは、かれこれ1年位前だったかもしれません。2002年にも、ブッダガヤ(法王の体調不良でインド入り後に中止が判明)とグラーツ(オーストリア)の灌頂に参加した私達ではありましたが、伝説の地での記念すべき法王30回目の灌頂、しかも日本語通訳付きと聞いてしまっては、もう何としても行かねばなるまい!というモードになっていました。
正式発表された日程によれば、今回の灌頂は1/14(Lの誕生日!)の満月に合わせて開催されるとの事。しかも、シンクロニック・リーディングでLが使用するアストログラフ(その時にその人にとって旬なエネルギーが訪れている場所がわかる地図)によれば、この時期、私にとって最もパワフルなラインが、このアマラヴァティの辺りを通過している事も判明。この時点で、アマラヴァティ行きは完全に決定という事になったのでした。
そもそも、私達が「クリカ」としての活動を始めることにしたのは、このカーラチャクラの灌頂を受けてからのことですし、「クリカ」という名前も、シャンバラでこの教えを保持する者に与えたれている称号なので(※)、私達にとって、アマラヴァティへの旅は、新たなる段階へと飛躍する何かを予感させるのに、十分過ぎる要素を持っていたのでした。また、ブッダガヤの時のご縁で知り合った友人のRちゃんが、その後スリランカに嫁いだというシンクロもあったり、アマラヴァティからそのまま伸びる私のラッキーラインが、この島の中央を縦に貫いている事もわかったので、インドの後には、そのままスリランカにも足を伸ばす事を決めたのでした。
※現在、学問的には、「クリカ」はスペルの読み違えで、「カルキ」と読むのが主流(現状の統一見解)のようですが、私達は、「クリカ」という訳が本に出ていた時にこの言葉に出会っている、というシンクロと、この言葉の響きがとても気に入っているという事を大切にして、その後も「クリカ」を使い続ける事にしました。
■世間は正月5日でぼちぼち仕事始めという頃、「13の月の暦」で生きる私達は、年の初めから24週目の、律動の月24日(7・手)という意識で成田空港へと向かった。今回は、約1年前のダラムサラ・ツアー(※1)で知り合い、その後KIKUの活動で協力し合う仲となった、S&Cコンビ(※2)と私達の4人が旅のメンバーだ。「カーラチャクラに参加できないチベットの人々に、何とかその様子を伝えてあげたい」という思いで、ビデオの配布を考えているSが、私達を含めてプレスパスの申請をしてくれていたので、今回はプレスとしての取材という重要な仕事もある。
13:20発のスリランカ航空は、ほぼ定刻通りに出発。今回、取材用に新しく入手したデジカメの取説に目を通した後は、ブッダガヤでのカーラチャクラでご一緒したYさんから頂いた、貴重な学術資料のコピーをじっくり読んでみた。曰く「金剛手が衆生強化のために、シャンバラ国王日光の妃の胎内に宿ったのが、月賢(スチャンドラ)だ」とか、「南インドで古来最も神聖なところは、アマラヴァティの塔の他にない」とか「金剛界曼荼羅は、その模本をアマラヴァティの塔に取っている」などなど、いち学説と知りつつも興奮せずにはいられない記述が満載で、あっという間に読み終えてしまった。以前、チベット暦法医学研究所で調べてもらった私の守護尊が金剛手で、最近、陰陽とか月日というメッセージが様々な形で私達の元にやってきていた事も、興奮度UPにひと役買っていたと思う。
この間、Lが瞑想をしていて面白いヴィジョンを見ていた。前夜の瞑想時には、地球を取り巻く時間層が、希薄な膜のように見えていて(タンポポの綿のようでもあるとか)、アマラヴァティ上空でそれが濃密になりつつある所だったらしいのだが、それがさらに進んでいて、完全にへその緒のようなものが形成されているのが見えたという。実際、ダライラマ法王は既に準備の儀式を始められているはずなので、ある次元ではこういう事が起こっていても不思議ではない(ちなみに、私はどちらかと言うと体感派なので、こういう映像はあまり見ない)。
ところで、最近の飛行機は、座席のひとつひとつに液晶画面が付いているので、映画もいくつかの選択肢の中から選べるのが嬉しい。私達は揃って、「Just Like a Heaven」という映画を観ていたのだが、これが意外に面白かった。臨死体験(幽体離脱)ラブコメディーという感じの内容ながら、描写には結構リアリティがあって、スピリチュアルな事に関心のある人はもちろん、関心の無い人でも、笑いながら「こんなことあるかもなー」と楽しめる作品ではないかと思う。そうこうしているうちに、飛行機はモルジブへ。何と、この飛行機、スリランカ上空を一度パスしてモルジブに向かい、そこから戻る感じでコロンボに至るという航路なのだ(直行便もあるが今回のタイミングには合うものが無かった)。殆どの人が降りて(新婚旅行っぽい人が多い)ほぼ満席だった機内は、急にガラガラ状態になった。
それにしてもスリランカ航空、座席とかサービスとかはフツーだが、機内食はハイレベルである。ベジのカレーなどは絶品で、旅行経験豊富なLも、「これまでの機内食でベストかもしれない」と口走る程。デザートも甘過ぎず、オリジナルな味を出していてGoodだった。成田を発って10時間余り、ようやくコロンボ空港に到着。ここからハイデラバード(インド)へ向かうためのトランジットなのだが、スリランカ航空が仮眠用ホテル(空港近くにあるらしい)を用意してくれているという事で、その確認手続きをしてから入国審査をパス。空港内をあちこち引き回され、移動用のバスが来るまでかなり待たされたりしたが、何とか無事ホテルに到着した。
暑さとミスマッチなクリスマスツリーがまだ残るそのホテルは、仮眠だけではもったいないような所だったが、実質2時間ほど眠ってシャワーを浴びたら、もう出発時間になっていた。フロント前のレストランが「ゴールデンドラゴン」という名前なのに気付いて、何故かやる気が出たのは、ここ、そしてこれから向かう先が、惑星ホロンで「竜」のエリアに対応する事を体が無意識に感じていたからかもしれない。
■早朝のコロンボ空港。今日の日付「8・星」は、帰路にこの地でお世話になる友人、玲子ちゃんの「銀河の署名」だ。港内を移動するバスに乗る直前、ふと空を見上げると、虹!以前、オーストリア・グラーツで行われたカーラ・チャクラ(以下K・C)に参加した時も、成田からウィーンに到着したその日に虹を見たのを思い出す。ウィーンもコロンボも、旅の最初と最後に通過するポイントという点では同じだし、「時の輪の教え」についての灌頂を受けに行く旅、という事を考え合わせると、何だか特別なサインのようにも感じられる。きっと今回も素敵な旅になるに違いない。
乗り込んだのが、スリランカエア175便というのも、先のヒマラヤの旅(ダラムサラ〜ツォペマ)で、チャーターした車のナンバープレートとシンクロする数字で興味深い(※ 1)。しかも、「銀河の署名」が(KIN175=6・鷲)の久保さん(チベットサポートグループKIKU代表)とは、これから向かうアマラヴァティで落ち合う事にもなっている。よく考えたら、久保さんも玲子ちゃんも2002年のブッダガヤのK・Cで知り合った仲だ。あの時は、インドに入国してから灌頂の中止が判明して(法王の体調不良により、二十数回に渡る法王のK・C史上初の中止となった)ガックリ来た上、自分自身も体調を崩してしまったのだが、あの旅が無ければ、グラーツに行く事も無かっただろうし(LがブッダガヤでグラーツK・Cの美しいパンフレットを見つけ、その開催タイミングがほぼ260日後だったのが決め手となった)、今回一緒に旅をしているSやCとも、巡り合う事は無かったかもしれない。そういう意味で、やはりブッダガヤの旅は、仏縁を結ぶ特別な旅だったと言えよう。
3時間程のフライトを経てハイデラバードに到着。コロンボでのトランジットの関係で、丸一日預けっ放しになっていた荷物も、無事全員分出てきてホッとひと安心。Sが予約してくれていた旅行会社の迎えも、すんなり見つけられて、いざ出発。それにしても、乾いた気候のせいか、もともとムスリムの街として発展したという背景からか、この街には、あのヒンズー的な混沌とした雰囲気があまり感じられない。路上で牛を見かける事は殆ど無いし、臭いも気にならない。たまたまそういう所しか通らなかったのかもしれないが、南インドを代表するハイテク都市へと変容しつつあるこの街に、牛が闊歩する光景を期待するのは今後益々難しくなるだろう。
郊外に出ると、時おり唐突に現れる岩山以外は、果てしなく地平線が広がる風景が続いていた。ドライブイン(といっても、造りは東屋風)で休憩を兼ねたランチ。スパイスの効いたフライドライスは、なかなかの美味さだった。途中、ナーガルジュナコンダ(竜樹ゆかりの場所)への分岐路などを通って、日が暮れる直前にアマラヴァティに到着。「伝説の聖地」という印象以前に、広大なテント村の光景に圧倒される。街外れの少し小高い場所にある20棟程度の小規模なテント村が、これから10日程私達が滞在する場所だ。機内で読んだアマラヴァティの塔に関する資料に、「ダーラニコッタは、アマラヴァティの西方にあり・・」という下りがあったが、ここがまさにその「ダーラニコッタ」らしい(テント村入り口の旗にそう書いてあった)。
ハイデラバードからの道はほぼ完璧に舗装されていたし、旅行社の車は何とシボレーのバン(当然冷房付)で、乗り心地も良く、運転も上手だったので、全行程7時間というドライブにも関わらず、思っていた程の疲れは感じずに済んだ。確かに、それ相応の対価は払っていたが、何せインドのこと。来てみるまでは分からない。そう考えると、この快適さで目的地に到達出来ただけでも、ありがたい気持ちになってくる。
テント村はまだ建設中で、隣のテントには、アメリカ人のおば様グループが先に到着していたが、反対隣(はSとCのテントだがその隣)は、まだ空いていて、後からロシア人がやってくるらしい。3週間程前、Lと二人してロシア(モスクワ)の夢を見た事と関係あるのだろうか。テントの造りは割としっかりしているし、何より各テントに、綺麗な(K・Cの為だけに造られたテントだから当り前なのだが)水洗トイレが備え付けられているのが素晴らしい。正直、数あるテントの中でもかなり贅沢なランクのものを申込んだのだが、普段生ぬるい環境で生きている私達が、真冬の日本から灼熱の南インドに来て、10日間倒れずに取材をするには、これ位の備えがあって丁度良いように思えた(後にこれを心底実感する事になる)。
荷を解き、ひと息入れた後、灌頂が行われる会場まで散歩してみる事にした。夜は随分と過ごし易くなって、少し涼しい位だ。メインストリートに出ると、クリスマスツリーに使うようなカラフルで細かい電飾が、道の両側に続いていて、村を挙げてのお祭という感じが伝わってくる。会場が近付くにつれ、人が多くなり露店も増えて来る。片道1キロから1キロ半位だろうか。建設中の巨大仏陀像は、会場を見下ろすように建てられているので、良い目印になりそうだ。ザッと下見をして帰路についたが、軒先に綿花が積み上げられている家や、テレビを前に一家団欒の時を過ごしている家族など、この村の人達の静かな日常を、ほんの少し垣間見ることができた。空にはプレアデスやオリオン、そしてアルクトゥルスが皓々と輝いている。明日から、どんな時が巡り始めるのだろうか。・・・後編へ続く→クリック
(※1)クリカHPの「ヒマラヤ・シンクロニック・ジャーニー」をご参照。
(※2)Sさん、Cさんには申し訳ないが、今後も度々ご登場頂く事を考えて、敬称は省略させて頂いた。どうかご容赦頂きたい。
★本原稿はメルマガ「Happy シンクロ Days♪」に記載した記事です。
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