畠山重忠の秩父杉

50日前のKIN131(1・猿)に始まった『鎌倉殿の13人』。自分にとって所縁ある場所が舞台になっているだけでなく、【壇ノ浦から鎌倉殿への魔術飛行】に記した前後の文脈に感じるものがあり、更に三谷幸喜の演出にも魅力を感じて見続けているのだが、昨夜は大倉御所や鶴岡八幡宮、腰越なども出てきて中々に感慨深かった。

御所と八幡宮は通っていた中学に隣接していたし、腰越は高校のすぐ近く。加えて、中学高校を通じて陸上部だったこともあって、結構あちこち走り回ったいたから、地名を耳にするだけでもその土地の風景や印象が自然と蘇って来るのだ。

1180年から1219年までの39年間、あるいは1225年までの45年間鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)の御所だった。御所の西端は横国大附属鎌倉小学校の校舎と校庭との境であることがほぼ確定(wikiの「大倉御所」より抜粋引用)

中学の部活の練習では、校舎北側にある西御門の急坂を登り、そのまま山を越えて建長寺へと下る道を走ったりもしていたが、当時は何故「西御門」なんていう地名なのか考えたこともなかった(…と思う。忘れただけかも笑)。もちろん、この地名は、大倉御所(大倉幕府=鎌倉幕府)の西門があったことに由来している。

鎌倉との縁が生じて39年が経った52歳の年巡りに、大河ドラマを通じて39年間御所があった場所(の西端)で学んでいたと改めて知るのは嬉しい驚きだ。武家社会が始まった歴史的な土地で思春期を過ごし、その土地の記憶とエネルギーを無意識的にでも感じられていた事を、ありがたく思う。

終了後、中川大志演じる畠山重忠という名前から、ふと、高千穂神社のご神木(秩父杉)と秩父三峯神社のご神木(重忠杉)が、ほぼ同じ頃に重忠によって植樹(寄進)された可能性がある事を論じた資料について思い出した。大分での講演会を主催し、高千穂にも導いて下さった元時のからだ塾生・田中勤子さん(KIN106)が下さったその資料は、『神木探偵 神宿る木の秘密』(本田不二雄著)という本の一部であった事が判明。以下に、そこから一部を引用してみよう。

秩父杉の名は、当社の古文書に残されたこんな文言に由来する。
「文治四年(1188)壬四月天下より御名代ちちふ様十社大明神(高千穂神社)に参詣」
「ちちふ様」とは、秩父庄司重忠こと畠山重忠のこと。
(中略)
「当社の社宝に、鎌倉時代の鉄造狛犬(国指定重文)がありますが、これも当時、武蔵国の鋳造技術者を束ねる立場にあった重忠公の奉納だったと思われます」(後藤俊彦宮司)

一つ前の記事にも書いた通り、私は今、高千穂神社の後藤俊彦宮司の『神と神楽の森に生きる』をゆっくりと読み進めているのだが、『神木探偵 神宿る木の秘密』には、その後藤宮司が2度、ご神木に救われたという大変興味深いエピソードも掲載されている。神木杉を通じて秩父三峯神社との関係も色々と書かれているのだが、今は以下の部分のみ引用しておこう。

養和元年(1181)、重忠が三峯神社に祈願。
文治4年(1188)、重忠が高千穂神社に参詣。
建久6年(1195)、重忠が報賽(祈願が成就した御礼)のため三峯神社に土地を寄進。

さて、畠山重忠についてもう一つ思い出したのが、一年半ほど前に訪れた武蔵御嶽神社。その時は、別な切り口に着目していたので、重忠の事はあまり意識していなかったのだが、この神社の宝物の中には、重忠の奉納と伝えられる国宝の赤糸威大鎧と、重要文化財の黒漆太刀銘宝寿(大小一対の太刀)があるのだ。知らず知らずのうちに、縁のある場所を訪れているものだと思っていたら、wikiの中にこんな伝説の記述があった。

重忠は宿場町・国分寺の傾城、夙妻太夫(あさづまたゆう)を気に入り、恋仲になったが、平家追討のため西国に旅立った。夙妻に横恋慕する男が重忠のことを諦めさせるため、重忠が討ち死にしたと嘘をついたところ、悲しんだ夙妻は、遊女街の近くの姿見の池に身投げした。国分寺市には、この伝説から名がつけられたという恋ヶ窪という地名と、姿見の池がある。

伝説的な話とは言え、「恋ヶ窪」という土地の地名がこんな由来を持っていたとは驚きである。Lはその近所で育ち、私は大学が比較的近所で、私の母も若い頃に仕事で通っていた土地。何とも不思議な縁である。そんな事を思っていた今日、何と秩父市から郵便物が届いた。

その郵便物は、銀河(8)の魔術の亀の日に投函され、サイ時間が「銀河の同期キン」であるKIN164(8・種)の今日届いた。その中身は何と「8」についての文章が書かれた冊子であった。引用が多くなったが、G暦2/28、13暦8/22の記録として残しておきたいものは一通り整理できたので、今日はここまでとしておこう。(D)

銀河の月22日 12・竜

追記:大倉御所に関する情報を追う中で「源頼朝は大倉幕府(大倉御所)を守らせるため、西側に畠山重忠、三浦村の屋敷を造らせた。鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の東の鳥居外側には、畠山重忠邸跡碑が建てられている。」という説明を目にして地図で確認すると、何と通っていた学校の校門前であった。正門ではないのだが、源平池を通り抜けて毎日使っていたのはその門で、少なくとも1000回はその跡碑を目にしていたはずだ(当時は読もうとも思った事も無かったが)。どうりで引力を感じる訳だと納得。

《News》
驚きは魂のごちそう』新メルマガ好評配信中!
『クリカ会員』とは
YouTubeチャンネル』月1でミニ講座(ライブ)配信中!


《天真体道瞑想クラス》会員制度スタート!
・3/3(木)21:00~21:45 ZOOM 新月
・3/14(月)10:00~11:00  二子玉川
・3/21(祝)21:00~21:45 ZOOM 春分

《13の月の暦ワークショップ》
・3/12(土) ZOOM テレクトノン
・3/27(日)横浜/ 13の月の暦レクチャー(ベーッシック&フリースタイル)
★「13の月の暦とマヤ暦の違い」  初心者必読!

《note限定お宝資料》
ドリームスペル(13の月の暦)で見る日本と皇室
・「パカルの特別な13日」の由来と真の意味