皇室と立方体と熊の関係(KIN17)

昨日、ネットで最初に目についたのは、皇太子さまが58歳になられたというニュースだった。しかし、リンク先の朝日の記事を読んでいると、どうも違和感がある。敬語が使われていないのだ。私は右とか左という分類には関心が無い人間だが、チベットサポートをするようになってから、メディアには特定のフィルターがかかっているという事をはっきりと認識するようになった。

そして、各メディアは諸国家を含む様々な権力組織に配慮した情報を選び、報じ方も意識的にアレンジされている事を理解した。資本に独立性が無い限り、完全な中立性や公平性などあり得ないのだが、そういう事には頭が巡っていなかったのだ。それはさておき、『13の月の暦』のツォルキンでは昨日はKIN16(3・戦士)で、昭和天皇生誕164銀河スピン目でもあった。

皇太子さまがこの一年(来年の天皇即位前まで)、昭和天皇の「運命の道筋」を歩まれるだけでも凄い話だが、「銀河の同期(KIN164)」と伊勢の式年遷宮がどちらも2013年にあった事を考えると、164銀河スピン目というタイミングにも、人知を超えた次元間的働きを感じてしまう。

しかし、日常の全ては、はじめから人知を超えているとも言える。昨日はまず、渋谷で行われている「第一回天真書法塾虹風教室発表会」の会場へ。天真書法塾師範科の道友で、入塾以前からの古い友人でもある本田虹風さん(KIN16)の初の教室展に一番乗り。

私達と友人Sさんの3人から贈らせていただいたのは「黄色い菊」の花束。インテリアコーディーネーターでもあるLが、諸条件を考慮して「色で決めた」ので(→種類で選んだのではない)、予約時には花屋さんも少々訝しがっていたが、結果的に上記のような(菊の御紋と関係する)日でもあった事に気付いて、自分たちも驚いた次第。

生前のアグエイアス夫妻に会っていて、『13の月の暦』の使い方も良く分かっている虹風さんは、発表会初日を自らの誕生キンにシンクロさせた訳だが、それが昭和天皇生誕164スピン目に当たる事には流石に気づいていなかった。作品が醸し出す気持ちの良い場を辞し、その後、幾つかの用事を済ませてから上野へ。

まずは、会期も残り少なくなって来た「南方熊楠展」に向かう。四半世紀ほど前に関連書籍を読み込み、ずっと注目していた人物だけに、実際の粘菌標本や手書きのメモなどを間近で観られたのは感動的な体験だった。また、熊楠が昭和天皇(KIN16)にご進講された事はもちろん知っていたが、上野訪問をこの日に決めたのは別な理由からだったので、結果的にKIN16となった事には「時間の法則」が働いているのを感じざるを得なかった。

科学博物館の後は、国立博物館の平成館で行われている特別展「仁和寺と御室派のみほとけ」で秘仏を拝し、その後、表慶館に移動して「アラビアの道ーサウジアラビア王国の至宝」を観るというお宝三昧の時間を過ごす。そもそも、この日の上野行きは、Lがアラビア書道を学びに行っているアラブイスラーム学院主催のギャラリートークがある、という理由で決まったものだった。

しかし、大勢の参加者でゾロゾロ移動するのに疲れて、早い段階でドロップアウト。以降、勝手に見て回らせてもらったが、アラビア古代史の知られざる側面についての知見を深める事ができた。だが、私達とっての最大の驚きは、1600年代から1930年頃まで使われていたというカアバ神殿の扉が展示されていた事。

なぜなら、カアバとははアラビア語で「立方体」を意味するもので、銀河ツール『テレクトノン』では、それを意識した「法則の立方体」というものが「戦士の16日間の旅」と連動して定められているからだ。まさか、ここでも16に出会うとは!ちなみに、預言者マホメットは、パカル王とほぼ同じ時代に活躍している。

この時点で既に多次元的にお腹一杯状態だったが、書を探求する身でもある私達は「呉昌碩とその時代」を観に東洋館へ。が、最初、展示場所が分からず入った本館で、思いがけず「刀剣鑑賞の歴史」が日曜まで行われているのを知って、そちらも観る事に。

他のコーナーはガラガラなのに、刀のコーナーだけは昨今流行りの刀剣女子達で賑わっていた。噂には聞いていたが、こんなに集まっているのは初めて見たので、ちょっとびっくりしつつも、国宝や重文の刀をじっくり堪能させて頂いた。特に印象的だったのが相州正宗。正直、刀は未だに分からない事だらけなのだが、何か心打たれるものがあった。

すっかりお宝酔い状態で帰宅したものの、色々と調べるうちに、さらなる驚きが次々に発覚。まず、南方熊楠は1867.5.18生まれのKIN105(1・蛇)で、1941.12.29のKIN40(1・太陽)に他界している事が判明。「極性の地球家族」で「1(磁気)」、そして「蛇」から「太陽」という『マヤン・ファクター』に記されている脳の進化とも連動した人生の流れに一人納得。

沢山あった手書きメモや手紙の中で、気になって撮影した日記帳は、那智の「陰陽の滝」で菌類の採集に行った1903.12.9〜12のもの。「陰陽の滝」には実際に行った事もあるので、その風景が思い浮かぶのだが、これをKIN3Dで調べると、何とKIN190〜193となる事が判明。

KIN190は『銀河のマヤ』に書いた通り、『13の月の暦(ドリームスペル)』ツォルキンで調べた時のパカル王の誕生KIN。それだけでなく、260KINを約5,125年の長期暦に置き換えた時に、パカル王が生きていた4カトゥン(およそ80年)にも対応している!

さらに、昭和天皇が詠まれた「雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ」は、昭和天皇が民間人を詠んだ最初の歌でもあるとの事。生物学研究者でもあられた昭和天皇(KIN16)の熊楠(KIN105)に対する思いは、ご進講から33年を経てこの歌を詠まれた事からも伺い知る事が出来る。

もう一つの驚きは、「アラビアの道」が行われていた「表慶館」に関するもので、やけに洒落た作りだと思っていたら、何と皇太子(大正天皇)成婚記念として、1908年に片山東熊(かたやまとうくま)の設計で完成したものと判明。皇太子さまから始まった1日は、その曽祖父に当たられる当時の皇太子さまに繋がるシンクロで完了。そこには「南の熊」と「東の熊」が関わっていたのだった。

最後に、昭和天皇誕生日のG4/29は、私の誕生日の260日後でLの260日前、つまり中間点であり、その日を選んで伊勢神宮に結婚の報告をしに行った事は、『シンクロニック・ジャーニー』P73にも書いた通りである。(D)

銀河の月18日/KIN17 赤い自己存在の地球